2016/03/06

こどもは幸せをくれるから。

つい数日前、夢で「アマト、ごめんね、ごめんねー!」と叫びながら目を覚まし、はっとしました。

うちにはトモという三歳児がひとりいるのですが、周りがほぼ全員、第二子を授かっているのを見て、いつの間にか脳内、夢のなかでわたしは二児の母になっていました。そして、トモを可愛がりすぎて、アマトに目をやってなかったのに気づき、罪悪感の条件反射で弟に声をかけている、という夢でした。

アマト、どこから出てきたんでしょう。初めて聞いた名前ですが。

 

巷では先月15日、はてな匿名ダイヤリーに掲載された「保育園落ちた日本死ね!!!」という投稿が、ネットの世界を飛び出しマスコミや国会にまで大きな反響を呼んでいます。

背後にある制度的問題、構造的な問題が指摘され、国会議事堂の前では「待機児童をなくせ」等のプラカードを掲げたデモが繰り広げられました。

 

保育園に入れず仕事を続けられなければ、世帯の収入も税源も減り、高齢化が進む。  

子育て世代が働きつづけられる環境が整わなければ、国が衰退の道をたどる。

他人事ではないという思う一方で、正直、過激な表現に若干臆します。

なぜならわたしにとって「保育園」はリアルな話題だから。  

しかもほんの4年ほど前まで、自分に子どもができると思っていなかったので、縁のない遠い話題だったから。

 

自分の細胞から人間が生まれるというのは経験してみてびっくりしたのですが、するとしないとで、子どもの身近さは変わります。  

人にもよるでしょうが、女性として高齢出産の年齢層になって子どもができないと、街中で子どもを目にするのがつらくなります。

ひとり授かって、さらに年齢が上がり第二子を授からないと、妹や弟の話がうらやましく聞こえる。

それで冒頭の夢など見てしまう訳です。

 

 

子どもや保育園は、特に女性にとってセンシティブな話題です。

それを自分が果たしてどこまで客観的に語れるのか、とふと思います。

 

しかし、思い返せばわが子が生まれるまでは、子どもは3歳までお母さんのそばにいるのが最善、という3歳神話(しばしば保育園を否定する理由とされる)の存在を知らなかったし、それに近いことを聞いても何とも思いませんでした。

それが今や自分の子どもを保育園に入れて働き、おかげで子どもも家庭も地域も潤い、労働力の一翼を担うことができている。

事実として保育園に支えられています。

 

子どもは幸せをくれます。

もちろん子どもがいなくても人の幸せの形はたくさんありますが、子どもは無条件に、親を、家族を、地域を、社会を、幸せにしてくれる。

 

保育園はいらない、そもそも保育園に入れるのは育児放棄だ等という意見は、子どもの存在の意義を捉えていないものだと思います。

子どもと、働く保育者を支える保育園は、マクロでみてもミクロでみても、理論からみても実践からみても、あらゆる人が入れるように環境が整備されるべきだと思います。

 

だからこそ、保育園問題を論じる表現が過激化することで世論が動いているというのは、是だと思います。

恐ろしげな言葉や表現は遣う場を選びますが、前述の投稿に関しては、問題を表出させ、議論を生させ、課題解決に動く後押しとなっていると思います。

過激だったり穏便だったり、論理的だったり非論理的だったり、直接的だったり間接的だったり、それぞれの形で解決に向けて論じていくことが必要なんだと思います。

 

というわけで、わたしも、微かで婉曲的かもしれませんが、子どもの尊い美しい可愛らしい存在が増えるよう、保育施設・保育士の拡充に力を尽くします。

 

ちなみに境 治さんの「赤ちゃんにやさしい国へ」のサイト<http://sakaiosamu.com/baby/>やページは育児を考えるうえで知識や情報の宝庫です。

 

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