そのプロバイダー、GOLも入社して半年ほどの1999年11月に買収(されること)が決まり、エクソダスというアメリカのデータセンター企業の日本進出の母体となりました。エクソダスは当時飛ぶ鳥を落とす勢いの会社で、2000年1月
(プレスリリース)には野村総合研究所(NRI)と組み、急速に足元を固めたかに見えた時期でした。データセンターの最大手として、業界二位の
グローバルセンターも買収して、株価は高沸しました。
インフラビジネスにも関わらず、「データセンターとは」「データセンターはどこへいく」といったテレビ取材依頼がくる状況。
このエクソダス進出の背景に、IRIの藤原氏やソフトバンクの孫氏の動きがあったとは、後に藤原氏のコラム「THE FOUNDER」(2013年5月20日)で知ることとなりました。
当時は、取材対応やコンテンツのローカライズ、CEOやSVP来日時の対応などに追われ疾走感がありました。
しかしこの勢い盛んだった会社は、
拡大する一方で直に資金繰りが回らなくなり、2001年には会社更生という残念な発表と
報道に相成りました。
そこではまたプレスリリースや報道対応、カスタマー対応、社員対応等に明け暮れました。
当時の回想をパートナー企業、NRIの楠 真氏がITproに
掲載されています。
不幸は重なるもので、GOLを創業しエクソダスの初代日本法人社長となっていたカナダ人経営者ロジャー・ボワベール氏がエクソダス倒産発表直後に不慮の事故で亡くなりました。 (
ITmediaニュース参照)
こうして明るくない話題が続くなかで、広報としてはポジティブな情報や素材を収集し、事業継続のメッセージを出し続けた時期でした。
そして年を越して2002年、イギリスのケーブル・アンド・
ワイヤレスがエクソダスを買収した一貫で、2度目の身売りとなりました。
(ITpro参照)
日本法人の統合が完了したのは2003年9月なのでそれまでの間、宙に浮いた広報スタッフとしては、事業継続アピールや動けるときに備えての市場調査、ケーブル・アンド・ワイヤレスメンバーとの交流など、何したら前に進めるのか模索してました。
そして2003年、エクソダスはケーブル・アンド・ワイヤレスIDCと一体になり、その後GOLを前述のとおり手放しました。
ケーブル・アンド・ワイヤレスIDCとはそもそも、
国際通信の自由化で1986年に伊藤忠商事、ケーブル・アンド・
ワイヤレスなどが設立し
トヨタ自動車も出資した国際デジタル通信(IDC)が母体。
その国際デジタル通信をめぐり1999年、
日本で初めての敵対的TOB(
Japan Times
Jobs参照)をNTTとケーブル・
アンドワイヤレスがおこない、NTTが敗れたという経緯で、時の注目を集めた会社でした。
激闘ともいえるやりとりの末にケーブル・アンド・ワイヤレスIDCとなった同社は、追ってピーエスアイネット、東京インターネットというホスティング会社を買収し、エクソダスの獲得により法人事業強化を加速しました。
わたしはそんな複雑な会社に広報として参画し、外資出身のマーケティングVPやPRマネージャー、オーストラリア人社長のもとで、3人の広報スタッフのひとりとなりました。
社長が1,000人いると、中規模とはいえ多様な人材が集まります。なかには完全にドメスティックマインドのおじさまや、コンシューマービジネスの美人さん、わたしみたいに外資からきた三毛猫みたいなの、と十人十色。
ベンチャー気質のわたしは、新参者としての作法が分からずに気を揉んだ記憶があります。
とはいえビジネスが広がると広報素材が多く、かつ会社は法人強化というわかりやすいメッセージを打ち出したので、仕事は順調で、初めての媒体や手法に次々と取り組むことができ面白くありました。
英語で話せる上司や同僚がいると翻訳作業がなくて楽でした。
そういえばこの頃結婚して、式に社長もVPもお呼びしました。
今思えばどんだけエライんだ、
です。が、CEOのフィル・グリーン氏(参考
ASCII.jp
2003年頭所感)、日本人の結婚式に出る機会は稀だったようで、喜んでいただけました。(
よかったー)
そんなのん気なことをいっている暇はあまりなく、2003年にはケーブル・アンド・ワイヤレスが日本市場撤退、と騒がれだし、また落ち落ちできなくなりました。
こうなると会社の上層部から抜けていくなか、広報としての責任は大きく、C&W IDC日本法人の顛末を見守るまでは、と緊張した日々でした。
経営層と連動しながら経営幹部やロンドンとやりとりし、取り沙汰されてる先方企業とも調整したりマニュアルを作ったりして、火消し任務を遂行してました。
それまでの短いスパンで買収や倒産を経験済みだったため、どうしたらビジネスへの影響を軽微にとどめ事業継続し、社員の不安を除けるか、を考えて行動しやすかったと思います。
最後の最後まで、ポジティブな記事創出の機会を狙い、企業価値を維持するように努めました。
今思えば残った経営陣は、頼りないわたしを責めることもなく、力を合わせて踏ん張ってくれました。
責任感に追われて連携を強め、任務遂行に没頭した時期でした。
さて、2004年5月に3,400億円で日本テレコムを買収してい
たソフトバンク(
ITmediaニュース参照)は、同年10月、買い手を探していたと思われるケーブル・アンド・
ワイヤレスIDCを総額142億円で買収(
ITmediaニュース参照)しました。小さなお買いもの(された側)でした。
その最中、わたくしごとの最初の結婚記念日は、緊急社員集会のために帰宅が遅くなりました。
くだんのオーストラリア人社長フィルは、こんなときでも茶目っけを忘れずにソーリーソーリーと笑ってくれたのを覚えています。
2005年2月には買収が完了。
ケーブル・アンド・ワイヤレス IDCはひとまず日本テレコムIDCと社名変更。
それから国際電話・国内電話サービスの通信事業をソフトバンクIDCに合併し、2015年にはソフトバンクと社名変更しています。
わたしはこの3回目の買収を機に、業界をITからPRに変え、PRからITを支えるよう転職しました。
ふり返ると、創業当初のGoogleの通信基盤となり数多のIT企業の成長を支えたExodusはアメリカに端を発するインターネットビジネスの黎明期におけるキープレイヤーでした。その広報業務を通じて、日本における前進、インターネットインフラの先駆者GOLを含めてITインフラとネットワークについて学び、その後に転じたPR会社でエレクトロニクスからソフトウェアまで幅広い企業、団体に携われたことで、テクノロジーを伝える意義を強く認識するようになりました。
この1999年から2005年までのこのジェットコースター期が、自身のキャリアの土台となりました。
PR会社への転職については次に。